大学1年の授業(3)社会学Sociologieで習ったこと

 4つの大きな社会学の学派の概論でした。どんな分析をしたのか、学派の方法論の特徴を、時折著作の引用をしながら授業が進みました。私なりの理解度ですから、専門家からしたら違うといわれるかもしれませんが、とにかく書いてみます。
 この授業は世の中をどう考えるかという道しるべを示してくれてすごくためになりました。でも、最初の試験ではまとめ方のコツをつかんでなくて、ギリギリ合格したかなと安心してたのに、詳述問題は壊滅的で落ちました(泣)。2回目の試験は、試験スケジュールが5日連続ときつかったので、3回目の試験に賭けるべく事前勉強ゼロでした。もちろん落ちました。試験3回目で無事合格です。

試験は、
・選択問題16問(8点)
・定義を暗記して書く(指定した4つのうち1つの定義出題、2点)
・引用部分の空欄は、どんなコンセプトを言わんとしていたかを記述(3点)
・どのように授業で説明したか、ニュアンスを交えながら詳述(下に記載した12の書籍の中から1つを出題、8点)
という構成で計3時間でした。

では、授業内容です。

1 デュルケームの社会学 Sociologie durkheinien
1895年 『社会学的方法の規準』 Durkheim "Les règles de la méthode sociologique"
1897年 『自殺論』 Durkheim "Le suicide"
1912年 『宗教生活の原初形態』  Durkheim "Les formes élémentaires de la vie religieuse"

 デュルケームは、心理学とは違う社会学の講義を大学で創設したくて、その方法論を理系(物理学系)と同じように実証を踏んで行うんだと考えました。統計の利用、実証主義(positivisme)、集団表象(représentations collectives、この社会グループはこんな特徴で生きてるよっていうイメージ)がキーワード。
 『自殺論』は、集団表象を分析する方法論として統計を使いました。各国の自殺者数ランキングは大体毎年同じような傾向にあります。それはなぜなのかを探ったものです。「なぜ自殺するんです?」なんて各国の自殺者にアンケートなんて無理ですよね。解明するには統計という客観的な指標を使い、自殺者に直接会わなくても自殺の因果関係を解明しました。
 統計では、自殺の傾向として、カトリックよりもプロテスタントが多い、家族持ちより独身が多い、政治的な革命に参加した人はしない人より自殺が少ない、ということを見出しました。また、社会との関わり度合いが極端だと自殺が多いんだとか。加えて、突然自分のステータスを失ってしまった場合(突然解雇や借金とかイメージ)も自殺が増えるという結果を導き出しました。
 『宗教生活の原初形態』では、オーストラリアのアボリジニの原始宗教を分析したものです。ここでは、統計を使わなくても「集団表象が結晶化したもの」、つまり、その社会の掟、制度、ルール、芸術などから実証できることを示しました。
 彼の社会学は、現場を見ずして、現場の人と接することなくその現場の社会はどんなものかを理系のように「AだからB」と因果関係は1対1で示せるものです。社会が個人より優位にあり、個人の行動を拘束するという考え方です。
 

2 ヴェーバーの理解社会学 Sociologie compréhensive de Weber
1904、1920年 『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』 Weber "L'éthique protestante et l'esprit du capitalisme"

 デュルケームの社会学と考え方が違います。
 ヴェーバーは人文科学(政治学、経済学、歴史)だけで説明できないところを扱うのが社会学と位置づけました。説明できないところを「文化」と呼んで、それは、個人に意味を与える世界のことを指します。たとえば、雨だから傘をさすという行為、その傘のさし方はVIPにさしてあげるガードマンと、駅から出るときに自分のためにさすしぐさには違う意味がありますよね。それから、水玉模様で骨が32本ある高級自動傘を使うのと、コンビニの安い傘をさす人を見ても何か違う意味がありますよね。この違いが文化で、これを研究する学問として社会学があります。
 意味には系譜的に正当であることと、因果関係に合理性があることの二つがあります。系譜的に正当というのは、その社会が昔から正しいと考えていることです。合理性というのはAならばBをするのは当たり前というようなイメージです。
 プロ倫の場合、プロテスタントの多い地域で資本主義が発達するという謎を前に、その理由をプロテスタントの教義とその教義により人々がどんな行動をするようになったかを紐解くのが正当性を探る行為のようです。そして、資本主義に必要な物的条件(技術の発展、富の集中、労働力)だけでは資本主義の発展には至らず、プロテスタントの行動と資本主義の発展に共通する(合理的な)理由として、利益を最大化して資本をよりよく獲得していくためにはプロテスタントの禁欲からくる勤勉な精神が必要だと導き出しました。
 ヴェーバーの社会学は、統計とにらめっこして社会とはこういう定理があると探ることではなく、そ社会の謎を他の同様の社会・歴史と比べながら紐解いていく、説明し理解していくというもので、「因果関係は1対1で示せるもの」という考えを否定してます(multicausalité)。
 政治学でも習ったのですが、ヴェーバーの研究テクニックとして、理念型(idéal-type)があります。まず、対象社会それぞれの特徴(タイプ)を紐解きます。絡まった糸をほどくように歴史・制度を説明します。その時に有名人物の発言・制定制度を引用することで当時の社会に広く受け入れられていたという度合いがアップします。次に、その紐解きを並べて複数の対象社会に共通する現象をあぶりだします。共通する現象のみの社会が存在することはないけど、理想(idéal)の形を示すことで個人が行う行為の意味を理解します。
 ヴェーバーはプロテスタントの禁欲と資本主義の発達を紐づけましたが、カトリックや仏教などプロテスタント以外の宗教の紐を解く作業もしています。この手法は、4番目の「シンボリック相互作用論」で使われています。


3 批判社会学 Sociologie critique
1964年 『遺産相続者たち』  Bourdieu & Passeron "Les Héritiers"
1979年 『ディスタンクシオン』 Bourdieu "La Distinction"
1997年 『新番犬たち』(日本語訳は見つかりませんでした) Halimi "Les nouveaux chiens de garde"(フランス語Wikipédia, 2005年映画版のYoutube検索ページ

 1960年代のフランスでは、大学生への奨学金など経済的支援をしても、親の職業別、社会階層別の学生の格差が一向に改善しないという問題が起きていました。その答えを探ったのがブルデューを中心とした批判社会学になります。
 エリート層の正当性が社会として延々と作り上げられている、学校も成績をつけるという能力主義という不平等を生産している、なので、不平等な社会は再生産し続けているという考えです。
 ちょっとマルクスのような気配もしますが、実証主義を取り入れ、政治と学問を分離するんだという点などから社会科学の流れとなっています。
 この学派は、文化資本といった文化的決定論(déterminisme culturel)にあります。フランス語では、déterminisme non mécaniqueという表現で説明されました。déterminismeとは、世の中文化的な階層で決定づけられているということで、non mécaniqueというのは、機械的に一つの階層にとどまり続けるんじゃなく、階層が変わる、変えられる余地があるよ、それが文化にあるよってことです。
 ブルデューは社会階級の力関係を統計など客観的な指標を使って分析します。ここはデュルケームの実証主義を踏襲しています。そして、経済資本、文化資本、社会資本の3つの資本を提示しました。経済資本は財産といったもので一番わかりやすいですね。文化資本はどんな音楽をたしなむか、コンサート行くか、親の学歴といったことで、社会資本は人脈です。このうち文化資本が社会階層の維持・移動・再教育に大きな役割を果たすことを発見しました。
 また、théorie des champs、「分野」の定理とでも言うんでしょうか。そういう法則を出しました(社会学では法則を発見するという意味でデュルケームの手法に近いですね)。「分野」は、財界、メディア界、ヲタク界、アニメ界・・・という「界」に似ていると感じました。3つの特徴があります。(1)分野内部の個々の組織に支配・被支配関係がある(例として、A社の社長と従業員)、(2)分野内の他の組織との力関係の中にある(A社は同業B社・C社に依存したり距離を置いたり)、(3)分野内の各組織の支配層同士で同盟を組む(メディア各社のトップで構成されるメディア協会を運営する)、というものです。


4 シンボリック相互作用論 Intéractionisme symbolique
1937年 『詐欺師コンウェル』Sutherland "The Professional Thief"
1949年 『ホワイト・カラーの犯罪』Sutherland "White Collar Crime"  
1961年 『アサイラム――施設被収容者の日常世界』Goffman "Asile: études sur la condition sociale des malades mentaux"
1963年 『スティグマの社会学』 Goffman "Stigmate"
1963年 『アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか』 Becker "Outsider: Etudes de sociologie de la déviance"
愛用のICレコーダーと、社会学テスト勉強メモ


  この学派は、戦後アメリカの保守的な機能主義が大勢を占めていて、人はどのようにして社会に適応するかという切り口での研究が主流でした。それに異を唱えたのがゴフマンやベッカーで、批判しても仕方ないから、個人が社会の中で良い機能・役割を果たすための社会と個人の関係を研究しました。社会が個人を操るのではなく、個人がどう社会の中で生きているのかと、主語を「個人」にした社会学です。研究者は対象とする社会の人と直接向き合い、その社会の中で通用している論理を真剣に探るという手法を大切にします。これは、現場との直接のコンタクト抜きで研究することを是とするデュルケームと真っ向から対峙します。
 授業のはじめでは、スリ(泥棒)のプロにスリの方法を学ぶというベルギー人制作映像『スリの学校 l'école des pickpockets(概要英語テキスト)』を流しました。 
 犯罪社会学で著名なサザーランドの『詐欺師コンウェル』と『ホワイトカラーの犯罪』から、犯罪は経済的困窮が理由ではないと結論付けました。『ホワイトカラーの犯罪』で取り上げたのは、アメリカの企業ランキング上位200社のうち、経済犯罪を40年間で犯したことのある70社で、これら企業では何度も不正をしているのです。
 ゴフマンの著書『アサイラム』は精神病棟にゴフマンが研究者という身分を隠して1年半住み込みで病院職員働き書いたものです。『スティグマの社会学』のスティグマとは、身体障害者、チック症、体のあざなど、人の1つのポイントが違うだけで社会から押される烙印を受けることです。
 ベッカーは社会学者であると同時にジャズミュージシャンという二足のわらじを履いていて、『アウトサイダーズ』では、当時は世の中から浮いていたジャズミュージシャンと、麻薬常習者を対象にしました。
 この学派の研究対象で共通しているのは、マイナーな社会グループ側から観察していることです。社会がそう線引きするからそう呼ばれるのであって、マイナーと線引きされたグループ側には、それぞれ(メジャーなグループの人にはわかってもらえないかもしれない)しきたり、文化がある、サブカルチャーの存在を示したことにあります。
 ゴフマンは、それをドラマツルギーという舞台用語で表しました。精神病棟での経験と類似する施設(収容を監視する人がいて、収容されてる人は24時間共同生活するような、刑務所、老人ホーム、軍の学校、修道院等)の研究記録を集めて全体的施設(institution totale、institutionは施設とも制度とも訳されますが、どっちも当てはまります)という理念型(idéal-type、ヴェーバーの考えを活用)を作り上げます。このことで精神病棟の患者特有の病的観点が薄められより客観的に社会を分析することができます。全体的施設内では、個人はその中での役割を演じ続けたほうが合理的・効果的だと考えてしまい、各役割のアイデンティティが生まれます。そのアイデンティティは、全体的施設を抜けても効果が続きます。そして、自分がどんな役を演じているか知覚するのは、他人との付き合い(intération)からわかります。ドラマツルギーがアイデンティティーを生み、維持し、再確認されます。
 ただ、全体的施設には必ず弱点があり、個人の外部でモノを伴う些細な行動を行うことで自己尊厳・自己満足を維持していきます。
 マイナーな社会グループでも特徴的なのが、「スティグマ」です。身体的特徴が他人との関係を
条件づける、健常者かそうでないかと区別いう意味で、社会での評価は中立的です。彼らはメジャーな社会グループ(≒健常者)とスティグマの間で葛藤が働いています。他のマイナーグループ(はぐれ者déviants、社会規範を逸脱した人)は、メジャー社会の掟とはぐれ者社会の掟双方を知っていて、はぐれ者社会の掟を正当化して二つの社会の間で共存を図ります。スティグマやはぐれ者は、社会がそうラベルづけするから起きるというラベリング理論(étiquetage)を提示しました。
 この学派は直前の批判社会学と違って、支配・被支配・不平等といった上下を示すことを言わないのが面白いし、多様な社会を認めようという規範多元主義(pluralisme normatif)は生きやすくなるヒントになると思いました。線を引くなということはできませんが、引きすぎると生きるのが疲れますね。